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社長あいさつ

生い立ち・今の仕事を志すまで

真面目な両親のもと、3人兄弟の末っ子として生まれる

 私の父は地元伏木にあった大手製紙工場で、機械修理担当として働いていました。機械が故障で止まった時はもちろんのこと、会社の休日の時にも機械の点検をしたりする仕事なので、働き詰めでした。母親も家で内職をしていましたし、家計的にはそれほど裕福ではなかったと思います。会社の従業員や社宅の人用の大浴場が近くにあったため、私が中学生になるまで家には風呂もありませんでした。

 私は男3人兄弟の末子として生まれました。決して裕福な家庭ではないものの、両親はいろいろな塾にも通わせてくれました。しつけには厳しかったですし、いろいろな習い事をしていたくらいですから、教育にはうるさいほうだったと思います。そんな両親の口ぐせは、「人様には絶対に迷惑をかけてはいけない」でした。

 両親は私たち子供のために、本当に一生懸命働いていました。しっかりと子育てをしてくれたと今でも感謝しています。

 長男は成人した後に職には就きましたが、心の病のため、自立できない状態となりました。本当に優しい兄でしたが、やはり性格的に気持ちの面でも弱さがありました。困難があるとすぐに挫折し、自分の心を閉ざしてしまいます。今思えば、その時に親として突き放した対応も必要だったとは思うのですが、わが子の事を心配するあまり、両親は長男の面倒をみすぎたと思います。

 その結果として、父親は会社を退職した後もずっと長男の心配をし、世話を続けていました。この病気は本当に対応が難しいと思いますが、世間から隔離しすぎてしまうと、逆に世の中に戻っていくチャンスを失ってしまうものだと思います。母が病死した後も、父は長男と二人で生活していました。

 父との思い出で一番印象深いのは、父の戦争体験です。私が小さい時に、父は昔の話は一切しませんでした。戦争に行ったことも、そこでどんな体験をしたのかも、その後何とか生き残って帰還してからの話も、同じ部隊で何人もの人が亡くなったということも、ほとんど聞くことはありませんでしたが、65歳を過ぎたころから、しつこいほど話はじめました。きっかけは、母が病死してから、少しずつボケが始まったことです。

不思議なもので、父は自分が体験したことなのに、他人事のように話していました。私は黙って聞いていましたが、かなり厳しく、つらい経験だったからこそ、他人事のようにしか話せなかったのだと思います。いつしか戦争の話しかしなくなり、周りの人もどう対応したらいいのか困るほどでした。特に晩年、ボケひどくなってからは、一緒に暮していた兄もその対応に非常に困惑するくらいでした。


建築を目指し石川高専の建築学科に入学するも思い悩んだ学生時代

私が中学を卒業するころ、父は53歳でした。当時は定年退職が55歳だったので、大学まで親に仕送りを期待するには無理があると思い、建築を目指して高専の建築学科に入学したのが今から41年前です。通学に時間がかかるので、学生寮入りました。

 しかし入学して間もなくですが、思っていた以上に授業が難しいというか、ハードというか、馴れない寮での生活もあって、自分の目指している道とは違うのではないか、このままでいいのかという迷いが生じました。自分が最終的に決断して決めたことなのですが、自分の思いのままに行動していた方がよかったのではないか、という思いが強くなったのです。こんなことなら、普通に高校を選んで、大学に進学すればよかったのかな……と後悔しました。

 今から思えば、建築の学校に入学したのも、建築関係の会社に入ったのも、実は消去法で決めたことでした。残った会社や職種の中から選んだのは、口には出しませんでしたが、心のどこかで、他人のせいにしたかったのかもしれません。

 それでも最終的に消去法で選んだ職種ではあったのですが、私が最初に建築に興味を持ち始めた時は、ビルなどの大きな建築を建てる仕事にあこがれがありました。誰もが知っている建設会社で、誰もが知っている建物を作る仕事をしたいと考えたのです。さんざん悩みましたが、結果的に卒業することをまず最優先に考えることにしました。その後で、自分が望む道とは違うと思うならば、その時はまた考えればいいのではないかと考えたのです。

 悩みの多い、迷った五年間が過ぎて、就職を考える時期になりました。私が、入学した当時は、高専を卒業さえすればいい会社に入れるという時代でした。名の通った有名企業に入社できると言われていましたが、実際には、1970年代のオイルショックの影響を受け、卒業するころに就職難になり、希望する会社に入社できませんでした。私が入社したいと思うような会社は、採用を控えてしまっていたのです。

 もともと学校での成績は褒められたものではなかったので、なおさら限られた会社に応募するしかありませんでした。いつの時代でも、社会の経済状況によって、就職先、仕事は変化していくものですが、そうした社会情勢に、私はまったくついていけませんでした。

縁故採用を期待して、親戚にも就職の依頼をしましたが、結果は採用されなかったのです。


初めての就職先は、京都の中小企業

卒業後は地元を離れたいと思っていましたし、都会での生活にあこがれが強くあったので、求人があった中で、京都にある中規模の建設会社に入社しました。最初に配属されたのは、団地の新築現場での監督の補助仕事です。

 現場監督の補助の仕事と言っても、実は職人の便利屋のようなもので、会社の上司から求められたことは、朝から常に掃除や片付けだけが主な仕事でした。休日もなく朝から晩まで、現場でどっぷり仕事漬けの毎日です。

 土・日、休日もほとんどなくて、楽しさよりも辛さが多く、不平・不満ばかりが募り、将来への不安も拭えませんでした。今は、どこもそれほどではなくなりましたが、私が働き始めた当時の建築業界は、他業種に比べて労働時間が異常に長かったのです。

 一つの現場が完成すれば次の現場に配属されるので、保育園の新築工事やマンションの新築工事といろいろ経験しました。しかし私が現場でやっていたことは掃除が主で、墨出しと現場補修仕事の手伝いくらい。

上司が残業だからということで、自分は何もすることがないのに遅くまで現場に残っていました。いつも転職したい、早く職を変えたいと考えていました。


転職を目指してデザインを学ぶものの、転職したのは大手ゼネコン

 転職したいと思っていても、建築業界以外でやっていく自信がない。だからといっていまから新しい分野を勉強していく時間も自信もありませんでした。当時、二級建築士の資格を持っていたので、業界内で生きていくしかないのかなと思う一方、それでも何かをきっかけにして転職できればと考え、興味のあったインテリアの勉強をするために、インテリアデザインの専門学校に入学しました。

 建築業界に身を置きながら、自分の仕事をかっこいいと思えなかったので、インテリアのかっこよさ、インテリアデザインというおしゃれな感じやステキなイメージに惹かれたのだと思いますが、当時の自分はうわべだけのかっこよさしか見えておらず、イメージしていたものと、現実は違いました。

 専門学校に入学して学んだ二年間の中で得られたことは、あまり多くありませんでした。インテリアデザインの一般論的な知識は身に付きましたが、それを活かして働けるような就職先は意外なほど少なかったのです。私は建築とインテリアの仕事を併せ持った会社を希望していたのですが、実際に求められている人材は、商業施設や店舗デザインなどの仕事で、私が考えているような職種はあまり必要とされてはいないと感じました。

どの業界でも同じですが、物事はそんなに簡単にうまくいかないもので、簡単に理想の場所が見つかるものではないということです。やはり、じっくり腰を据えて取り掛からないといけないということを学びました。

 インテリアに関して、自分の能力的に足りない知識だと思い選んだのですが、いざ勉強してみると、学校で教えてもらえる知識は、基礎的なものだけで、私がすでに知っていたことが多く、なかなか真剣に学ぶことが出来ませんでした。

 

 インテリアデザインの勉強はしたものの、最終的に決めた就職先は、超大手の建設会社でした。知人が紹介してくれ、何とか出向社員という形で勤めることができました。1年後には中途入社で、その会社の社員になりました。名前を聞けば多くの人が知っている有名な会社で、世に言われている大手ゼネコンでした。配属されたのは、エネルギー関連の大規模建築物をつくる部署で、完成まで10年以上かかる案件を多く抱えていました。3年間、東京の本社で準備期間を過ごし、いざ建築がスタートすると、新潟県の現場に行きました。

 さすがに大手の建設会社です。給料は思ったより少なかったですが、残業代でカバーはできましたし、当時は独身だったので、もらった給料はすべて使っていました(今、家づくりを考えている人に貯金はしていますか、家計は大丈夫ですかということを、しつこく言っていますが、当時の自分を振り返れば、偉そうなことは言えません……)。

 また、思ったよりも残業時間は少なかったことは良かったのですが、一つの建物に関わるスタッフが多いので、当然その中の歯車の一部としての役割しか果たせず、責任も少ない代わりに、喜びも少なく、仕事に関して情熱を持つことができませんでした。

 夢と希望をもって建築業界を選んだはずだったのに、会社の規模や仕事内容に関係なく、夢も希望も抱けない状態にジレンマを感じていました。何か専門的な知識や能力を自分が備えているわけでもないし、あまり勉強が好きではないので積極的に学んで、がむしゃらに成績を上げるタイプでもない。今考えると当たり前の成績であったとお思いますが、当時はそんなふうに考える心の余裕もありませんでした。

縁あって妻の両親が経営する小さな木材会社に入社

 ジレンマを抱えながら過ごしていたときに縁あって妻と出会い、妻の両親が経営する小さな木材会社に入社することになりました。

 木材会社は私の地元である富山県で事業を営んでいました。私は結婚を機に、10年ぶりに故郷へ戻ってくることになりました。最初の内は工場の中で製材工の仕事をしたり、木造住宅の現場監督をしていましたが、住宅の現場は少なかったので、工場内で製材工としての仕事、それも製材工の手元的な仕事、誰でもできるような仕事をすることを多く求められました。

 しかしこれまで、工事現場で誰でもできる雑仕事に対して、辛い思いをしてきた経験があるのでなおさら抵抗を感じてしまいました。自分にとってやりがいのある仕事だとは思えないと、義父と衝突しました。義父とは、考え方もやり方も違い、仲が良かったのは最初だけで、常に衝突ばかりしていました。

 

 義父の話には、適当に相槌を打っていればいい、軽く受け流していればいいのにと周囲から言われましたが、素直にできません。妻などからは、かなりぶきっちょな性格、悪く言うと融通のきかないガチガチの性格に見えたはずです。完璧を求める一方で、けっこうルーズな面もあり、若い頃は、理想と現実が常に噛み合っていなかったです。しかしそれは、自分がやりたい仕事は何なのか。どんなことをしたいのかがわからなかったというよりは、自分の甘えから、努力を惜しんでいた部分があったのだと思います。 

 家づくりの仕事の依頼は年に2~3件はありましたが、全て知人の紹介か木工事の下請け仕事でした。今から思えば、一昔前のやり方で、受注も一定していませんし、どうしても紹介中心のお願い営業です。お客様に言われるとおりの家づくりをしていました。予算がないと、仕様を落としたり、それができないと、自社の利益を下げたりもしました。

一軒のお客様の家づくりに、かなりの時間も、かなり労力を使いました。経費が少ない分、他社よりも価格を抑えることはできましたが、利益的には満足のいくものではなく、やはり最初の内は、家づくりの仕事は自分にとって、ふさわしい仕事だとは考えられませんでした。 それでも休日もなく働いていました。休日は現場での作業がないものの、事務所にクレームの電話がかかってきます。この頃は、家づくりがそれほど楽しい仕事だとは思えませんでした。時間と労力をかけているのに、それに見合う喜びを見出せなかったので、誰のための家づくりなのか、何のための家づくりなのかと常に自問自答していました。

 ここで少し、自身の家づくりの経験を話しておきます。

 私も自分の家を建てました。実際には父親が全てを仕切って自分が作りたい、使いたい無垢材をふんだんに使って建てた、今でいう数寄屋風の高級木造住宅でした。多少会社にゆとりがあった時期でしたし、やはり自分の家を建てるとなると、余計力が入るのも仕方のないことなのですが、木材屋ということもあり自社の木材在庫をふんだんに使いました。部分的には私の言うことも取り入れてはくれましたが、いかんせん、仲の悪いもの同士ですので、当然私にとっては気に入る家にはなりませんでした。

 実際には、家族全員の希望を取り入れた家を建てるといことは、すごく大変なことだと思います。やはり最後は、誰か一番立場の弱い人が我慢しないと話はまとまりませんし、形にはなりにくいものだということを、自身の家づくりを通して学びました。

 今の住宅設備と比べると、当時の値段は3~5倍も高かったので、本当に高い家を建てていたと思います。当然のことですが、最終的には残ったのは住宅ローン(借金が増えただけ!?)とは言いませんが、出来栄えはもちろん、金額的にもバランスが取れ、100%満足するような家ってなかなか建てられないのだということを実感しました。


前触れもなく前社長が引退。急な社長就任

 その後も、社長は依然旧来の経営をひきずった経営を続けていましたが、バブルが崩壊した後で仕事が激減しました。経営が少しずつ大変さを増してきたとき、私は入社して10年が経過していました。

 そんなある日、社長は突然引退を決めたのです。

 私は急遽、会社を引き継ぐことになりました。引退後、義父はめったに会社に顔を出すことはありませんでした。私も、教えを乞うことが気恥ずかしくて、自分で調べたりしながら手探り状態で、経営をはじめました。

当時は、木材の仕入もほとんどしていなかったので、自社の製材工場で製材する主な木材は、住宅で使われる構造材と下地材が中心で、桁やはりなどの大きなものは、外材である米松丸太を、木材問屋から仕入れしていました。また国産材として杉をメインに仕入れて製材していました。製材作業に関しては、昔からの製材を行う従業員がいたので、心配はなかったのですが、丸太を選んで買うという経験をしたことがない私は、どうしていいのかわかりません。

 木材の注文の流れは、まず大工さんや工務店の担当者が、木拾いを行ったものを受け取り、それに単価(売値)を入れます。しかし、木材の見積をするのに、仕入れ単価がよくわかっていませんでした。前社長である義父は、丸太の仕入れ価格などは、長年の経験と勘で頭の中で計算できるくらいでしたが、私にはその基礎がありません。原木の仕入価格は、問屋に問い合わせれば大体わかるのですが、木材の歩留りと製造コストを理解していないと、単価が出せません。場合によっては、会社の利益が出ないということになります。

 丸太の質の良さを見極めることもできなかったので、苦労しました。木材は、まず欠点のないものを選ぶことが重要です。腐れや割れは当然だめなのですが、節のないもので長くて、径が大きい丸太は高くなります。長くても曲がっているものはだめですし、太くて木目が目荒は安くなります。木材を切り出した産地・場所よって色も違います。

 杉丸太は、心材は赤身が多く、外側の辺材は白身となります。耐久性は赤身のほうが高いので用途は広がりますが、節が出やすいですし、白身(辺材)のほうが節のない材料がとりやすいのでいいということになります。

 

 杉材は特に色の差がでますので、赤白混じったものを源平と呼んで、使います。木材の等級は、節のないもの、木目が細かくて、柾目が通っているものが、高くなりますし、杢目・板目で使う場合は目のきれいなものが高くなりますので、大径木で、欠点のない丸太を買えばいいことなのですが、それでは、当然価格が合いませんので、使用する場所によって、どの木が相応しいのかを決めないといけません。そうした違いを理解するまで、本当に時間がかかりました。


義父の突然の死で、多額の借金を抱える

そして、手探り状態から始めた製材所の経営で、最初に起きた問題は、製材加工機が老朽化して、製品の精度が悪くなり、材料の取り換えが多く発生したことです。きちんとした製材品を提供できないと、仕事がなくなります。仕方なく、車上操作式の送台車を交換することになりました。交換等に費用は掛かりましたが、まだ、会社には少しばかり余力があったので交換することもできましたし、木材に関しての知識はまだ足りなかったのですが、何とか経営を続けていくことは出来ました。

 

ところが、さらに大きな問題が起こります。社長を交代して1年後、義父である前社長は病気で入院しましたが、その後1ヶ月後に、突然病気が急変して、あっという間に亡くなってしまったのです。それまで義父とは仲が良くなかったので、木材に関しての肝心なこと、木材の見極め方も聞いていませんでした。木材に関しての知識不足だけでなく、製材業の経営者としても、未経験者であったために、十分に把握していませんでした。肝心なことは何一つ、引き継いでいなかったのです。

 父親が引退したときにも、会社に大きな借金が残っていました。しかし父親が生きている時には、社長の私には、まだ会社の債務責任はなかったのですが、相続すると、資産だけでなく、借金も引き継ぐことになるので、その全責任が自分たちにかかってきます。

 周囲の人はそんな状態で経営を引き継いでも、上手くいくのは難しいので、無理してまで会社を引き継がなくてもいい、相続しなくてもいいよと言ってくれました。冷静に考えたら、そのほうが賢い選択かもしれません。前社長とは衝突ばかりで、嫌な思い出が多くあったのですが、なぜか放棄してしまう気になれませんでした。

 しかし一度引き継いでしまうと、途中で経営が厳しいからといっても後戻りはできなくなります。いろいろ悩んだ末に、周りの人たちも応援してくれるということで、マイナスからの再スタートをきりました。会社を伸ばすのも、ダメにするのも、自分の経営次第です。責任の大きさを痛感しました。

 会社には、わずかですが売れる土地の資産があったので、不要な土地を売却し、在庫を減らす努力もしました。そして、問題のない範囲で銀行からの借入、金利の高い借入を、減らす工夫もしました。しかし結果的には、それでも億以上の借入が残りました。持っているものだけで借入金額を減らすには、限界がありますし、何より経営が続きません。 次に行うことは、ただ一つ。どうにかして少しでも売上を上げることです。

 その次に、歩留りをよくしないと利益は出ないので、一本の丸太からいかに効率的に製品をとることができるのかが重要になってきます。

 木材は平角や正角として製品にするので、どの径の丸太から取ると、ロスが一番少ないのかを考えないといけません。木挽きさ(製材用の丸太の選別と製材の仕事を行う)として、木取りを学ぶことから始め、さらに少人数で生産性を上げるために、古くなった小割の製材を行う機械の入替や、挽き割り材を選別し、ギャグリッパーや小割帯鋸盤、チップ加工機へライブローラー、コンベアーで送る装置も購入しました。しかし、製材加工機などの設備の入れ替や、機械を新しくするには、かなりの高額の費用が掛かります。何とかそれまでに銀行からの借入を減らし続けてきましたが、また、銀行から資金を借入ることになり、結果的に借金の金額は増えていきました。

 製材の売り上げは、年々減ってはいましたが、一定の売上は維持できていましたし、機械を入れ替えれば、売上を伸ばせるという考えもありました。今から思えば、かなり無理をしたと思いますが、当時はそうするより方法がなかったのです。

 しかし、それだけで終わらないのが人生、経営の難しさなんですね。


突然、製材工が入院します

木挽きさと、丸太を台車に乗せて帯鋸で製材する製材工が、突然病気で長期入院することになりました。少しずつ経験を積んで、木材に関しての知識もついてきたのですが、実際に現場で、加工機である台車に乗って、製材した経験はありませんでした。経験しないとなかなかうまく操作することはできないのですが、しかし、そんなことも言っていられないので、翌日から、手探りで現場の作業をすることになりました。

 残った2人の製材工と協力しながらの作業です。小割を担当していた従業員には木取りをしてもらい、定年退職した製材工と、機械を買った業者に操縦方法を習って、少しずつ丸太の製材を始めていきました。当然急な注文の対応はできないので、その場合は、同業の木材屋さんに外注でお願いもしました。

 昼間は工場内で製材作業を行い、夕方から事務作業をやる日々が続きました。日によっては仕入れにも行かなければいけないので、今思えばハードな日々です。

 しばらくして、入院した製材工は退院しましたが、やはり将来的には健康面で不安があったので、少しですが木材加工の経験がある社員を採用しました。元の製材工に送材車の、操作の指導をしてもらい、何とか交代することができて、工場内での現場作業を任せることができるようになりました。

 それでも製材業の苦労は絶えません。

 それまでの製材の中心は、桁や梁などの構造材を製材することでした。大きな丸太が必要なので、米松(ダグラスファー)の丸太を仕入れていました。国産材、杉丸太にはそれほど大きなものがなかったのです。余談ですが、米松は松といってはいますがパインではなく、ダグラスファーなので、モミになります。

 目の細かいカスケード材は丸太の価格としては高く、目の粗いコースト材は安いので、一般的には売値によって使い分けします。在庫を多く持ち、使い分けができるのであればいいのですが、やはり売上以上に余分の在庫を持つことは無駄になります。コースト材で製材して製品を高く売るか、カスケード材を高く買ってもらえればいいことなのですが、予算の関係上なかなかそうはいきません。売上に応じた在庫だと、注文材に対応できる量や、品数がどうしても限られてきますので、売上を維持するには難しいものがあります。

一般的には目の細かい材料を希望されるので、いかに目が細かくて、節の小さい丸太を安い材料を仕入れるかにかかっていますが、やはりいいものは高いので、すべて安くすることはできず、中間でセミカスケード材が中心になってきます。

 また、大きな丸太のほうが小径木より高くなるので、垂木や下地材などの細かいものを細い丸太で挽いて、桁などの大きなものは、大きな丸太で引きます。いずれにしても多くの丸太を在庫していないと対応できません。置いておく広い場所も必要になってきます。もともと敷地は広かったので場所的には問題ないのですが、きちんと整理されていなかったり、ロスや無駄が多くあったので、それを整理するのにも一苦労でした。

 

 売上を上げるのに、高価な木材も販売するのですが、青森ヒバ(ヒノキアスナロ)富山県では草槇と言われ、ヒノキと同様に高価な木材です。時々使われる方がいます。能登アテも同じ種類の木なのですが、ランクは青森ヒバのほうが高価なので、こだわられる方は青森ヒバを注文されます。そこで、青森ヒバの丸太を仕入れるのに、冬の青森に一月に二度行きました。青森ヒバは天然林ですし、大きい径の物が少ないので、結果的に無地材が(節のない材料)なかなかとれず、当初計算していたより、丸太の歩留りも悪かったこと、交通費と運賃が高くつきましたので、結果的にはさんざでした。

 

 また、富山県ではポーチの桁や内部の大きな化粧梁、破風板(つながない一枚の板)を希望される方が多いので、米松の大径木、ピーラが必要になってきます。以前は、普通の丸太と一緒に大径木も混じっていましたが、徐々に少なくなり、希少価値で、なかなかいい丸太が入らなくなってきました。ピーラは末口70~100㎝ですので、元木部分は1mを超えます。節がなくて、ヤニの出ない丸太がいいのですが、そんな都合のいい木はなかなかありません。見た目だけ良くても、実際には二つ割に製材してみないとわかりません。

少ない量で、限られた予算で選ぶ以上、なかなかこれはという丸太はありません。その結果、なかなか利益を出せませんでした。

 外材の仕入れで上越や金沢港、敦賀や・名古屋港へも、仕入れに行きました。特に大きな丸太は、港の海上で、筏で保管してあります。海に半分沈んだ丸太を見て買うか買わないかを決めるのですので、かなりの経験が必要です。昔は丸太の量も多くありましたし、いい丸太もありましたので、かなり安くも買えました。1から2本悪いのがあっても、それ以外の丸太が良ければ損はしなかったです。

 しかしそんなことは昔の話で、1本でも丸太の買い方を失敗すると、安い値段でしか売れないので、結局、無駄な買い物になってしまうということです。当時仕入れていた丸太や盤(現地で引き割り製材してあるもの)は、外材(米材)だと、米松、米杉、米ヒバ、米栂、スプルース、それに中国産のタモ、北洋材(ロシア)だとエゾ松、ラクヨー松(カラマツ)南洋材だと、メラピーなどのラワン材でした。


 国産材でいえば、富山県産の丸太は民間や県の木材市場で仕入れますし、石川県の穴水にある総合市場だと量的に多く出品されているので、月に一回仕入れに行ってました。

 出品番号ごとにセリによる入札を行い、一番高い人が仕入れることができます。通常手を挙げて最後に残った人が競り落とすのですが、何人も手を挙げると、なかなか自分が決めた、予想した予算では、競り落とすことは出来ませんし、出品者もセリに参加していて、安くおとさせないように、こっそり手を挙げて、ギリギリのところで、手を下します。やはり経験も少ない私はかなり不利でした。また、岐阜県にも桧の原木丸太を仕入れに行くこともありましたが、やはり仕入れる量・回数が少ないこと、なれてないこともあり苦労の連続でした。


 製材業では、特別なものは注文があってから丸太や製品を仕入れたりもしますが、一般的なものは先に買って在庫として準備しておくのが普通です。丸太を製材してから、しばらく乾燥させないと、製品として使えないということです。そして、取り扱う品種・種類を多くすると、どうしても在庫量は増えてしまいます。

 前社長は特にケヤキが好きでしたので、ケヤキを仕入れていましたが、ケヤキは特に、製材した後に何年も置いて乾燥させておかないと、売り物になりません。仕入れたものが現金になるまで時間がかかるということは、それだけ、資金的にゆとりがないと難しいということなので、私にとっては、なおさら頭の痛いところでした。


厳しさが増す製材所経営

なんとかギリギリのところで、製材所を経営してきました。しかしながら、木材業界はますます厳しさを増しました。大工職人が不足していく中で、コストダウンを求めていくということになり、木材販売はプレカット工場が中心になりました。

 自然と加工にかかる人件費を減らして行く必要があります。工場で機械を使って木材を加工するというプレカット工法を、時代は求めていましたので、遅かれ早から、全国に広まっていくのは当然の事だったと思います。


 今でこそ当たり前になってしまいましたが、当時かかなり抵抗もありました。大工さんが加工すること、手刻みでの加工をやめてしまうと、その分の仕事量が無くなってしまい、大変な思いをするのではないか!?ただただ目先の事ばかりが気になっていました。プレカットが主流になれば、工務店や大工さんは木材屋さんを通して、プレカット工場に注文するより、直接頼んだ方が安くなります。その結果として、木材販売することができなくなってしまう、木材が売れなくなってしまいます。そうなると、従来の経営方法では、木材屋としては生き残れない、ということになります。

 すべての材木屋がそうなったわけではないのですが、だいたいはどの製材所でも、毎年売上が減少し、製材、木材販売を続けていくには厳しい環境になりました。

 製材業以外には、知合いの住宅建築を請負う仕事もありましたが、まだ、積極的に住宅建築を請負うやり方もわかりませんでしたし、住宅建築の営業をしていくと、普段から木材を買ってくれている、工務店や大工さんと仕事の受注競争になってしまうと、それ以降に木材を購入してもらえなくリスクがありますので、積極的おこなうことは難しいと思いました。

 しかし、一般の工務店や大工さんに、木材の製材と販売を行うことが中心だと、だんだん厳しい予算内で、最大限いい材料(木材)を、工務店の社長さんや、大工さんは求めてきます。木材に関しては、いい木材は高いのが当たり前です。一般的には、安くていい木材というものは、ないのが当たり前です。しかし、予算に合わないといって断ってしまうと、注文はもらえず、売り上げは減少するので、会社経営が成り立ちません。会社を維持するためには、少々採算の合わない仕事であっても、引き受けることになってしまいます。その結果として、会社の経営はますます厳しくなっていきました。

 そこでさらなる設備投資で、他社とは違う道を選ぶことにしました。他の材木屋との違い、メリットをアピールすること、時代が求めていた、高品質の木材を供給するために、高価な木材加工機と乾燥装置といった設備投資が必要になってきました。木材屋として生き残っていくために、維持し続けていくために木材販売に付加価値をつけて売り上げ増を目指していくために、何千万円もの借入をして、モルダー加工機(多軸加工機)と木材乾燥装置などの設備投資を行うことにしました。


 プレカットで一般の工務店からの仕事が減りましたが、付加価値の高い機械設備を整えることで、逆に大手プレカット工場の下請けの仕事が入ってきました。プレカット工場では、標準外、規格外の木材は用意できないことがあるので、オーダー材、特注材の注文を受けるようになりました。しかしながら、ある一定数の仕事はいただけるようになって、売り上げを維持できるようにはなりましたが、納入木材に関しての品質の要求が高すぎるということ、納入価格に比べて、天然木材に求める要求が高すぎるといことがあって、実際にはなかなか思うように利益が残せませんでした。

 一時的には売り上げも上がりましたが、売り上げに比べて利益率が悪く、思うような経営ができませんでした。やはり長期的に考えると、高額な設備投資だったかもしれません。売り上げを維持するためだけに、借金をして機械を入れ替える、そして借金を返して、また新しい機械を入れ替えるという悪循環に陥りました。

 しかしながら、何にもしなければ当然のことながら、もっと早くにお手上げの状態になってしまうので、結果的にはこの方法しかなかったと今はそう思っています。


住宅会社への転換 住宅業界での新たなスタート

木材業界を取り巻く環境は、どんどん悪くなっていきました。このまま、工務店・大工さん向けの材木屋だけをやっていても、本当に会社がつぶれてしまうと考えていたときに、ある住宅コンサルタントとの出会いがあり、安くていい家を建てるノウハウや、家づくりを考えている人に、どうやって会社を知ってもらうかというノウハウを教えていただくことができて、目の前が開けてきました。

 そこで、2005年からチューリップハウスという名称で、子育て世代のためにも「安くていい家」を建てたいと思い、住宅業界での新たなスタートを始めました。今までの自分の経験を活かせる仕事は、まさに住宅業界にありました。今まで回り道だと思っていた人生は、実は回り道ではなかったということに気づいたのです。中小建設工事現場での経験、大手ゼネコンの中で教わった施工計画、インテリアデザインの勉強、木材の知識 原木・丸太の仕入れての販売といったこと全部が役に立つとわかりました。そして、これまで知り合った多くの方との人付き合いや人間関係は、とても貴重でいい経験だったのです。若い頃に、とにかく田舎を出たい、地元ではなく都会へ出て働きたいと思っていました。それは単なる都会へのあこがれでした。勉強もどちらかというと嫌いなほうだったし、変な意味でのコンプレックスもあったので、それ程無理な努力も勉強もしてきませんでした。努力することを避け、要領だけで乗り切ろうとしてきたことが報いとなって、ここまで時間がかかったのだと思います。

 どんな状況に置かれていても、どんな結果になろうとも、それを恐れずに、大きな意味でも夢や希望を持ち続ければ、いつかは必ずや結果に表れてきます。前向きな人生を送れば、無駄な人生はないということ。すべてが将来、生活していくために必要な人生経験に変わります。

 家を建てるための知識や技術に関しては、家づくりのプロとしては当然持っていました、そうした気づきを得るまでの私は、本当にお客様の将来のことを考えていたのだろうか? 人の人生をも左右する家づくりで、自分がやってきたことが、本当にお客様に最適な家づくりになっていただろうか? 器としての家づくりならば問題はなかったのかもしれませんが、お金の心配、無事に住宅ローンの支払いが終わるまでの過程を、想定した提案して考えることまではできていませんでした。でもそれこそが、本当に家づくりを行う者の使命なのです。

 私は何のために家づくりの仕事をしているのか、自分を必要としている人達のために家をたてることができているのか、それも安くていい家を……。

そう思って安くていい家づくりを目指して走りだしましたが、最初のうちは自分が思うほど利益を出せず、本当に苦労の連続でした。しかし、自分の人生をかけて私たちに、家づくりを任せてくださるお客様に対して、自分の会社の都合を優先させるような家づくりはできませんでした。

 同じように全国に地元で頑張っている住宅会社の集まりである会で、いろいろな会社さんの話を聞いたり、情報交換をさせていただいていく中で、いろいろ工夫していく方法を知ることができ、自身の知識も深まっていきました。厳しい経営状態の中で、経営者としてのお金の問題、銀行との対応の中での貸し借りの厳しさも経験したからこそ、お客様との家づくりの話の中でも、資金計画の話を強調することにしています。

 お金が余っていて、どんな家を建てても問題ないという、経済状況の人であれば問題ありませんが、一般的な資金計画のもとで家を建てるということは、やはり無理な背伸びをしない、身の丈に合った家づくりをした方がいいとおもいます。


なぜ家をつくるのか

家を建てる仕事の喜び

これは自分自身への反省から言えることなのですが、私は建築業界に入って38年になりますが、縁あって28年前から家を建てる仕事をするようになりました。しかし、家づくりの仕事は手間や時間もかかります。時間をかければいいというものではありませんが、よりいいものを目指すと時間がかかります。時間をかけてプランを作って、予算に合うと思われるもので、最大限いいものを作ってあげれば、それでいい家を建てたことになると思っていました。

いい家づくりとはお金と時間をかけて作る物だと思っていましたし、そのため、いい家を作るためにはお金がかかるのは当然だと思っていました。結果的に値段が高くついてしまうと、お客様の満足度が下がってしまい、思うほど喜んではもらえてないような気がしました。

 しかし、A様というお客様との出会いが、私の家づくりに対しての考え方を変えるきっかけになりました。家を建てたお客様に本当に喜んでもらえた、ありがたい感謝のお言葉を頂けるという経験を、A様と出合って初めて経験できたのです。

 お客様と信頼関係が築けるということは、何より嬉しいことですし、お客様といい関係で家づくりを進められるようになったということは、私どもの家づくりのやり方は間違っていなかったという実感にも結びつきました。そんなこと当たり前だと思われるかもしれませんが、スタートした当時はそうならないことも多くありましたし、全ての人にそう感じてもらえなかったこともありました。

 FPの専門家とも知り合えたことが大きかったと思います。ライフプランの重要性をお客様に知ってもらうことが、とても重要なことであり、ライフプランから逆算して家づくりを始めることが、お客様の将来のことを考えると、とても大事だということを再認識しました。特に子育て世代の方が家づくりを考える上ではまず、人生設計・人生予測であり、資金計画より先にライフプランを考えることが、失敗しない家づくりには必要不可欠です。今の時代、家づくりをスタートさせるときに必要なのは、どこに家を建てるのかではなく、どんな家を建てるのかでもありません。あなたの人生を相談できる「人生アドバイザー的」な役割が出来る人と出合うことです。そして、第三者として客観的な立場で家づくりのアドバイスが行える人生経験を私は年齢を重ねているだけ持っています。

 そんなわけで手前味噌にはなりますが、私がこれまで家づくりに関わった人で住宅ローンお失敗をした人はいません。それは、家を建ててはいけない人の家を建てなかったということなのですが、私たち家づくりを仕事とする立場の者としては、絶対に家づくりで後悔させることなく、建てた後の生活が、充実して素晴らしい人生となるよう、家づくりのそのきっかけになることこそが、最大の使命であると考えています。

 

 また、私には3人の子供がいますが、3人とも両親が、毎日忙しく働いて姿を見ていましたし、苦労して大学まで行かせたことを知っているので、思った以上にしっかりとした子に育ってくれたと思っています。多少ひいき目には見てしまいますが、それほどまめな父親ではなかったのに、長女と長男は大学を卒業後に希望する会社に入社しました。次女はしっかり私の会社で働いてくれています。本当にありがたいことだと思っています。そうした経験も、子育て世代の相談にいかせることが、私の強みであると思っています。

 

 あなたが家を建てる一番の目的は何ですか?

 あなたは家づくりを考え始めた時、どうして家を建てたいと思いましたか?

 何のために、誰のために家づくりをしたいと思いましたか?


 人それぞれいろいろな理由があると思います。

 いつまでも実家にいるのが嫌だから? アパートだと家賃がもったいないから? それとも狭くて、子供部屋がないから? 家を建てる事が、男の甲斐性だと思うから? 結婚したり、今の生活を一新して新しい生活を希望されるから……?。


 人はそれぞれ、家づくりを始める思いは違いますが、家を建てることで、それまでの不都合な事や、問題解消されて、今より豊かな生活にならないといけないと思います。家を建てることがゴールではなく、そこから始まる明るい人生、素晴らしい人生となるためには、いったいどうすればいいのかしっかり考えておくことが大事です。

 家づくりを考え始めたらこの先の人生を、もう一度考え直してみる、今後の生き方を決める! これからの人生を楽しむ、謳歌するために、家づくりと人生をセットで考えることをお勧めします。そのために必要な、あなたにとっての選択肢、決断の方法を、これまでの数々のお客様の家づくりに関わってきたものとして、経験してきたことを、アドバイスしていきたいと思います。

 別に私でなくてもいいのですが、あなたに合う家づくりパートナーとともに、ぜひ、これからの人生の楽しむために家づくりを始めてください。


私が目指す今後の家づくりのススメ! なぜ、家づくりの仕事をしているのか…!?

あなたが家を建てる目的は何ですか?

 何のために、誰のために家づくりをしたいと考えていますか?

 また、

 あなたはどうして家を建てたいと思いましたか?

 いつまでも実家にいるのが嫌だから?

 アパートだと家賃がもったいないからですか?

 それとも狭くて、子供部屋がないからですか?

 家を建てる事が、男の甲斐性だと思うからですか?

 結婚して、新して新しい生活を希望されるからですか?

 家を建てる目的や理由、家づくりを始める思いや背景は人それぞれ違います。

 しかし、人それぞれ住いに関して抱えている問題、不都合なことが家を建てることで解消されて、今より快適で心豊かな生活がおくれないといけないということです。

 それゆえに、家を建てることが最終の目的やゴールではなく、そこから始まる新たな生活が、あなたの家族にとって素晴らしい人生となるようにするために、いったいどのような家づくりをすればいいのか、事前にしっかりと考えておくことが大事なことなのです。 そこで、家づくりを考え始めた時こそ、この先どのような人生を送りたいのか、今後どう生きたいのかを考え直してみて、あたらためて生き方を決めること。そして、あなたとご家族それぞれの人生が、心豊かに健康で充実した実り多きものとなるように、家づくりと人生設計をセットで考えることが最重要事項だと考えています。

 わたしたちは、家づくりのプロとしてあなたの家づくりとその後の人生で決して後悔することがなく、希望する人生が送れるとともにあなたが間違いのない選択肢や決断が出来るように、これまで数々のお客様の家づくりに関わってきて感じたこと、経験してきたことを元にしっかりとアドバイスと家づくりサポートを合わせて行ってまいります。

 また、家自体をしっかり建てることはもちろん大事なことですが、本来は外溝工事やエクステリア、お庭もしっかりと最初から進める家づくりがいいのは、皆さん既におわかりだと思いますが、実際にはなかなか予算的に厳しくて後回しにされてしまいます。

 しかし、私どもが考えるベストな家づくり、常に目指している家づくりとは、立派な家は建ったものの高価なため外溝などが何にもされてない殺風景な家だけを建てることではなく、家とお庭がセットで考えられているトータルバランスのとれた家づくり、日々の生活にゆとりと安らぎを与えてくれるちょっぴりオシャレなお庭のある家で家族全員が心豊かにおしゃれに暮らせること。

 それこそが、私たちの目指す家づくりであり、使命だと考えています!